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白石列藩会議の内容

この背景には何があったのでしょうか。

気になったから思わず調べちゃいました。

慶応4年(1868年)、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。

一方、4月10日九条総督は庄内藩討伐を発表して秋田久保田藩等に応援を命じると共に、4月14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かった。24日、清川口で東北最初の戦闘があったが、各藩とも消極的で戦争の引き延ばしを図っていた。こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、東北諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。

閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。


世良修蔵の暗殺
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであったが、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月11日 17:58に投稿されたエントリーのページです。

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